草原を歩く。
- 2014/06/09
- 22:33
こんばんは。
15時頃に打った歯茎の麻酔がついさっきまで効いてました。
おかげで夕飯をあまり楽しめませんでした。
麻酔打ちすぎじゃねーの?と思いながらブログを書いています。
そんなことはいいとして、歯医者の待合室でぼんやりテレビを見ていました。
ワイドショーでは総選挙が大々的に取り上げられています。
アイドルの方です。
今さらその話題か、と呆れられそうですね、すみません。その方面には疎いです。
色んな女の子が次々に出てきて、自分の順位についてあれこれスピーチしています。
その中で、一つ印象に残るものがありました。
多くの子達が他人と比較した自らの現在位置について一喜一憂する中で、その女の子は前回の自分だけを比較対象にし、他人の順位には一切触れず、そもそも競争するという意識が薄いように見えました。
僕はその女の子に拍手を送りたくなりました(単純にその子がかわいかったからかもしれません)。
あの女の子達は、なぜ一番になりたいのでしょう。
スポットライトをあびたいから?
優越感にひたりたいから?
わかりません。
ただ僕が思うのは、「一番になること=自らの存在価値を証明すること」ではないか、と。
一番になることはあくまでも存在証明のための手っ取り早い手段に過ぎないということです。
競争に勝つことばかりが目的になり、自分を見失ったら、それは本末転倒でしょう。
自らの存在価値を証明するのに、競争以外の手段を知らないのは不幸です。
他者からの承認は、ある種の人にとって自らの存在証明になる。
一方で他者の承認に依存せず自らの存在証明ができる人もいます。
それは、自分で自分を承認できる、自己肯定ができる人です。
かつて、経済的成功のみがもてはやされる世界がありました。
そこではあらゆるモノを金で手に入れることができる、紙幣は万物と交換可能な魔法の紙でした。
人々は多くの金を得て、その金で多くのモノを手に入れようと躍起になりました。
そして実際に多くのモノを手に入れたとき、同時に大きなものを失っていたことに気付くのです。
それは例えば家族との温かい時間だったり、友人との何気ない会話だったり、一人で音楽を聴きながら物思いに耽る休日だったり。
もうずいぶん長いことそういったものから遠ざかっている自分に気付き、慌てて取り戻そうとしたところで、それらは記憶の彼方に流されていくだけです。
そういったものは取るに足りない、つまらないものなんだよ、と教えられてきたことを思い出し、わかったようなわからないような顔で、また自分の生活に戻っていく。
多くのモノを持つことが自己実現だと信じ、モノを手に入れるために競い合う生活へ。
先日、ダウンシフターと呼ばれる人達のドキュメンタリーを見ました。
シフトをダウンした人達、つまり経済活動のみを追求するハードワークから離れて、自らの価値観に忠実に生きる人達を指す言葉、でしょうか。
ネット中心の書店を開いたり、バーを開いたり、アウトプットは様々ですが、皆揺るぎない価値観に基づいて生きているようでした。
金持ちになることだけが唯一のゴールで、偏差値の高い学校を卒業することだけが唯一のスタートだなんて、あんまり面白くない世界ですよね。
人それぞれのゴールがあっていいし、そのためのスタートだって無数にあるはずです。
そしてそもそもこれは競争じゃないんだから、ゴールとかスタートっていう比喩すら不適切なのかもしれません。
だだっ広い草原にたくさんの人が思い思いに座ったり寝転がったりしていて、それぞれのタイミングでそれぞれの方向に歩き出す。歩かないで空を見てる人もいる。
僕はパンを焼いて音楽を聴き、娘と手を繋いで歩く。娘のもう片方の手は妻と繋がっている。すれ違う人と挨拶をしたり、同じ方向にいく人と冗談を言ったりしながらどこまでも歩いていく。
草原に風が吹いて、風船が空へ昇っていく。
僕はそれを見届けて、また歩き出す。
15時頃に打った歯茎の麻酔がついさっきまで効いてました。
おかげで夕飯をあまり楽しめませんでした。
麻酔打ちすぎじゃねーの?と思いながらブログを書いています。
そんなことはいいとして、歯医者の待合室でぼんやりテレビを見ていました。
ワイドショーでは総選挙が大々的に取り上げられています。
アイドルの方です。
今さらその話題か、と呆れられそうですね、すみません。その方面には疎いです。
色んな女の子が次々に出てきて、自分の順位についてあれこれスピーチしています。
その中で、一つ印象に残るものがありました。
多くの子達が他人と比較した自らの現在位置について一喜一憂する中で、その女の子は前回の自分だけを比較対象にし、他人の順位には一切触れず、そもそも競争するという意識が薄いように見えました。
僕はその女の子に拍手を送りたくなりました(単純にその子がかわいかったからかもしれません)。
あの女の子達は、なぜ一番になりたいのでしょう。
スポットライトをあびたいから?
優越感にひたりたいから?
わかりません。
ただ僕が思うのは、「一番になること=自らの存在価値を証明すること」ではないか、と。
一番になることはあくまでも存在証明のための手っ取り早い手段に過ぎないということです。
競争に勝つことばかりが目的になり、自分を見失ったら、それは本末転倒でしょう。
自らの存在価値を証明するのに、競争以外の手段を知らないのは不幸です。
他者からの承認は、ある種の人にとって自らの存在証明になる。
一方で他者の承認に依存せず自らの存在証明ができる人もいます。
それは、自分で自分を承認できる、自己肯定ができる人です。
かつて、経済的成功のみがもてはやされる世界がありました。
そこではあらゆるモノを金で手に入れることができる、紙幣は万物と交換可能な魔法の紙でした。
人々は多くの金を得て、その金で多くのモノを手に入れようと躍起になりました。
そして実際に多くのモノを手に入れたとき、同時に大きなものを失っていたことに気付くのです。
それは例えば家族との温かい時間だったり、友人との何気ない会話だったり、一人で音楽を聴きながら物思いに耽る休日だったり。
もうずいぶん長いことそういったものから遠ざかっている自分に気付き、慌てて取り戻そうとしたところで、それらは記憶の彼方に流されていくだけです。
そういったものは取るに足りない、つまらないものなんだよ、と教えられてきたことを思い出し、わかったようなわからないような顔で、また自分の生活に戻っていく。
多くのモノを持つことが自己実現だと信じ、モノを手に入れるために競い合う生活へ。
先日、ダウンシフターと呼ばれる人達のドキュメンタリーを見ました。
シフトをダウンした人達、つまり経済活動のみを追求するハードワークから離れて、自らの価値観に忠実に生きる人達を指す言葉、でしょうか。
ネット中心の書店を開いたり、バーを開いたり、アウトプットは様々ですが、皆揺るぎない価値観に基づいて生きているようでした。
金持ちになることだけが唯一のゴールで、偏差値の高い学校を卒業することだけが唯一のスタートだなんて、あんまり面白くない世界ですよね。
人それぞれのゴールがあっていいし、そのためのスタートだって無数にあるはずです。
そしてそもそもこれは競争じゃないんだから、ゴールとかスタートっていう比喩すら不適切なのかもしれません。
だだっ広い草原にたくさんの人が思い思いに座ったり寝転がったりしていて、それぞれのタイミングでそれぞれの方向に歩き出す。歩かないで空を見てる人もいる。
僕はパンを焼いて音楽を聴き、娘と手を繋いで歩く。娘のもう片方の手は妻と繋がっている。すれ違う人と挨拶をしたり、同じ方向にいく人と冗談を言ったりしながらどこまでも歩いていく。
草原に風が吹いて、風船が空へ昇っていく。
僕はそれを見届けて、また歩き出す。
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